<p>보아하니 왜국에서 건너온 유학생 같은데, 일본어로 글 치는 것도 힘들고, 번역하는 것도 힘들고 하니 쳐놓은 일본어 원문 올려줄께요.</p><p>마지막 가장 중요한 부분만 다른분들을 위해 해석하도록하죠.</p><p>그리고 안용복 진술이 구라라는 근거 가져오세요. 일본 학자조차도 \"그 내용에는 과장된 것이 있지만 왔다 간것은 사실이고, 주장한 것도 사실이다\" 라고 하는데요.</p><p>어디 님만의 근거 가져와보세요.</p><p><br></p><p><p>鬱陵島で日本人に出会ったという話は、 安龍福の作り話であって事実ではないことはすでに指摘した。その上で隠岐にやって来て、鬱陵島と子山島が朝鮮の領土であると主張したかどうか。村上家文書の「覚書」についてみよう。安龍福は、取り調べの在番役人に対して、「朝鮮八道之図」をさしだした。そこで竹島と松島については次のように述べている。</p><p>「安龍福が申すには、竹島は竹島と申し候、朝鮮国江原道東莱府の内に鬱陵島と申す島があり、是を竹の島と申す由、則ち八道之図にこれを記して所持仕り候」</p><p>「松島は右道の内、子山と申す島御座候、是も八道之図に記し申し候」</p><p>安龍福は、尋ねられていないにもかかわらず、竹島の鬱陵島、松島の子山島について述べているのである。しかも両島ともに朝鮮国の江原道東莱府に属しており、八道之図に記してある通りという。八道之図なるものは持参しているといっていたが、村上家文書なかには見られない。</p><p>朝鮮八道を列挙した書面では、江原道のところで竹島と松島が記してある。また「此道ノ中ニ竹島松島有之」とあるが、他の道の島については記していないことからして、竹島と松島を朝鮮の領土として主張するために特別に作ってきたものと考えられる。</p><p>竹島と松島の位置関係については、同じ「覚書」のなかで次のように記してある。</p><p>「当子三月十八日、朝鮮国朝食後に出船、竹島へは夕方着、夕食を食べ申し候由」</p><p>「五月十五日竹島出船、同日松島着、同十六日松島を出て、十八日朝隠岐島の内西村の磯へ着」</p><p>「竹島と朝鮮の間三十里、竹島と松島の間五十里これあり申し候」</p><p>韓国の蔚珍と鬱陵島の間は140キロ、鬱陵島と現竹島(松島、子山島、独島)は92キロとされている。したがってここでいっているように、朝鮮本土と竹島の間が30里で、竹島と松島の間が50里というのは正確ではない。また、本土で朝食後に出発すると、鬱陵島には夕方に付くというのも、里数に合わせていったものと思われる。ともあれ、こうした表現は、鬱陵島朝鮮に近いこと、したがって朝鮮の領土であることを言いたいための配慮から出たものと思われる。</p><p>また時間距離では、5月15日に竹島を出発すると、同日中に松島に着く、16日に松島を出ると、18日の朝に隠岐に着いたといっているのは実態に合っている。1667(寛元7)年の斉藤豊仙による「隠州視る聴合紀」でも、隠岐の北西方向に1泊2日で松島へ、さらに1日行くと竹島に到着すると記している。</p><p>以上みてきたように、鬱陵島の竹島、子山島の松島についての位置関係の認識もたしかであり、両島はともに朝鮮国の江原道東莱府に属する島であることを「朝鮮八道之図」を使って説明したこと、それを日本側の隠岐国在番役人が記録に書き留めたことなどが、明らかになってたのが村上家文書の「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻覚書」である。</p><p><br></p><p>이상 본것과 같이 (안용복이) 울릉도=죽도, 자산도=송도에 대하여 위치관계의 인식도 정확하고, 두 섬은 전부 조선국 강원도 동래부 소속 섬인 것을「조선팔도지지」를 사용해서 설명한 것, 그것을 일본측의 은기국 번 공무원이 기록하여 남겨둔 사실이 명확하게 남아있는 것이 무라카미家 문서「겐로쿠9 병자년 조선 선박 정박 일권 각서」이다.</p><div><br></div><div>隠岐の安龍福 内藤正中 2005.10 鳥取短期大学 에서 발췌.</div></p>
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